怒りではなく、支えあいを

統一の意識

周囲がまだ薄明かりに包まれている中、周りの人々に神のメッセージを伝える役割があなたに与えられたのだ。周囲の人たちがその価値を知っていなくても、その事実は天地が証人となったのだ。決して、道を知らずにいる人たちの状態を非難してはいけない。あなたが行なった奉仕を人々が認めなかったとしても、神はご存知であるのだから。

あなたは自分に適した、やるべきことを行った。今、あなたの周囲はまさに花園のようである・・・。あなたの周囲に、成長していくこれほど多くのバラがあるのに、少々のとげに苦情を言うのは何故だろう。この不穏さ、成長途上の欠点や不足点へのこの反応は・・・?

神に結び付けられた心にとって、来世への道におけるこの奉仕の報奨をこの世で求めることは、成熟とは程遠い振舞いではないだろうか。この世界も、中に含まれるものも、はかない。来世は、想像を絶するようなその美しさと偉大さとともに、限りのない存在ではないだろうか。そう、真実の道における努力の対価を求めることをやめなさい。向こうには、1000個の現世ほどの価値がある。

人々のあなたに対する好意(たとえ正当な根拠のあるものであっても)を、偉大さのしるしと見なし、その評価が与える地位に自らを結び付けてはいけない。まして、他人を自分より劣ると見なすというような成熟していない行動には、絶対陥ってはいけない。アッラーの御前における価値、尊さは、魂の純粋さ、心の偉大さによる。物質に価値を与え、肉や骨の下でひしゃげてしまうことはどれほどの不幸だろう。

目上の人への敬意は、基盤として存在するとしても、それを追及してはいけない。他人のあなたに対する敬意は、それが望まれたり期待されたりすることなくひとりでに生じたものであるなら害はないが、それが求められ、追求されるようになれば、行きつくことのない愛着となり、その人を貧窮や困難さへと陥れるものとなる。

人々が価値を与え敬意を示すことに対し依存し、安心していてはいけない。こういった好意は、天空の向こうの「好ましいものとしての評価」の一つの反射であり、喜ばれるべきものと見なされるとはいえ、それを求めるべきものではない。人を一瞬の間喜ばせたとしても、長い時間痛みを与えるものとなる。このような一過性の好意に惑わされ、その心を暗くしてはならない。

この奉仕が大きくなるに従い、敵も増えていっているように、あなたも、あなたの周囲の人たちによって試されるかもしれない、と考えたことはあるだろうか。考えなさい。神の手によって、それぞれ試みの要素として利用された親友たちに対し、人間性を持って振舞いなさい。

人々に対して行った奉仕、身近な人たちのために施した善を、彼らに見せ付け、周囲の人たちがあなたに対しうんざりするようなことがあってはいけない。忘れずにいなさい、あなたが行ったのはそれぞれが義務であり、あなたはそれを命じられているのであり、責任を負っているのだ。

あなたが読んだ本、あなたが考え、分析した主題、そしてアッラーの道において息を切らして奮闘したこと、これらに比例して謙虚さが増し、「与えられた困難さを恵みと見なす」という段階に到ることができていないなら、あらゆる動きにおいて自己中心さという爪に挟まれることを思い、脅えなさい。

どのようなことがあろうと、私に、あなたが行った奉仕の偉大さや払った犠牲について話題にしてはいけない。もしあなたが、あなたの成果を社会の財産として、また友人たちの努力に対し与えられた神の恵みとして見なすことができるのであれば、お願いしよう、私にそれを伝えてほしい。あなたの心地よい言葉が、私の心を整えるように。

「私の知識、私の誇り、私の名誉」と言い、我欲の歌によって敵を喜ばせ、親友を遠ざけてはならない。あなたに長所があるのなら、向こうの世界のために花を咲かせるか、穂を実らせなさい。あなたの人生に伝説があるのなら、天使による永遠の書として残しなさい。

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